秋田酒類製造のはじまり
第一回目決算の業務報告書の冒頭の下り。
そこには秋田の酒造業の歴史にとって、あまりに衝撃的な内容が記されています。

『苛烈ナル決戦下戦力増強ノ一翼トシテ業界有史以来、未曽有ノ大変革タル清酒製造業企業整備断行セラルヽヤ株主各位ニハ監督関係御指導ノ下滅私奉公ノ理念ニ基キ情ニ於テ誠ニ忍難キ父祖伝来タル永年ノ家業ヲー擁シ欣然国策ノ要請ニ応へ厳ニ秋田酒造組合地区簾)ニ於ケル統合体トシテ秋田酒類製造株式会社ヲ設立シ以テ酒造報国ノ重要使命達成ノタメ新発足スルニ至リタリ』

秋田市、男鹿市、旧河辺郡、旧南秋田郡管内25酒造家のうち自社圧縮した小玉合名会社(太平山)以外24人の酒造家は、合同を余儀なくされます。父祖伝来の家業である酒造業を放棄せざるを得なかった株主全員がひとしく決意した悲壮。戦中にそれを纏いながらも、前へと進もうとする当時のすべての蔵元達の心情に、まずは想いを馳せたい。

昭和19年、初代野口社長(親玉)、営業を那波(銀鱗)、製造を佐藤(新政)、経理を佐藤有方(四十八銀行・現秋田銀行) の陣容でスタートを切る。秋田県民から「高清水」という新酒銘を授かりますが、戦後、8蔵(福禄寿・新政・銀鱗・秋田山・勝平・黄金井・宝生・勝平)が離脱、全株のじつに66%強を失うという事態になります。

“我々に残されたのは「秋田酒類製造」という社名、「高清水」という酒銘と本来の石数だけ”
統制時代から自由時代への転換期を迎えるなか、父祖伝来の蔵を復活させたいという考えに至るのは必然の流れでしょう。
とはいえ残った蔵にとっては単なる危機という言葉では片づけられない状況です。
当面、新政工場の蔵を二つに分け、一つは「新政」、他の一つは「高清水」として使い窮状をしのぎました。喫緊の課題となった新工場の建設が連日検討され、数々の立地場所のなかから、すこぶる水が良く、藩政時代に佐竹藩主がお茶会用に汲んでいた井戸水と水脈を一つにすると言われるこの川元の地を選びました。
ですが、時代は流れ、さらに独立の意志を持つ蔵元達と袂を分かつこととなります。蔵の焼失・訃報など紆余曲折を経て、家業をどう守るか、どう生きるか、皆ギリギリのなか決断を迫られます。最終的に残った12人の構成員が一様に感じた「背水の瀬戸際」。
この一致した考えが「和」を生み、そしてともに道を歩む決断をすることになります。


「和の道、信の道」

 苦節を超えたところに、人の和は生まれるべくして生まれました。
そして初代鶴田百治杜氏のもと一つにまとまる。酒はそれを造った人の性格に似るという言葉がありますが、当時を知る人は、高清水が和やかでかつ綺麗といわれるのも、鶴田氏の人柄を知って頷かれたと言います。この蔵に、この方の後継者を多く持つことは我々の誇りです。

「理想の酒」は“鯛のカタチ”をしていると鶴田は言いました。高清水のすべての酒に浮かびあがるこの魚影が、令和の世になおも輝きを放つのは、高清水が日本酒の普遍的な価値をつねに貫き続けてきたからです。

 

秀麗無比シリーズ第四弾
創業と守成の本社蔵 5代目杜氏 菊地格が表現する鯛のカタチをした山廃純米です。
ここに残る鶴田の鯛に例えた「理想の酒」の全文を記載します。ぜひこの言葉をお読みいただいてから、ご賞味をいただけると幸いです。
「素直に口にふくまれ、のど越しが良い。自然にふくらみをもち、充分に張りを感じさせる味が、静かな落ち着きのあと、今一度ピンとはねる味が欲しい。鰡(ぼら)のように最初から最後までのっぺりしていてはいけない」。
”酒の国”秋田に生まれた幸せ、秋田に生きる悦び。秀麗無比なる山廃純米を思う存分堪能してください。

◇「ぬる燗」をするひと手間
日本酒は冷やしても温めても幅広い温度で美味しい、世界的にも珍しいお酒です。そして、5℃きざみで雅な名前が付けたのは、情緒を大切にする日本人らしい愉しみ方です。この山廃純米で感じていただきたいのが、日向燗(30℃)、人肌燗(35℃)、ぬる燗(40℃)の表情です。徳利にお酒を注ぎ、温度計で計るひと手間をかけて燗をしてみて下さい。いっそう香りが引き立ち、米の風味や甘みがふくらみなめらかさになり、山廃の酸が柔らかい旨みとなり、得も言われぬ上品さが引き出されます。上品な味付けの鍋料理に合わせて、この絶品の味わいをお愉しみください。

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