高清水誕生前 |
|
|
1656年 |
菊谷善右衛門が久保田町(現秋田市)中通町に創業
銘柄:菊水
明暦年間「菊水」久保田町に創業 |
|
「菊水」のラベル |
|
菊屋「白酒」のラベル |
|
「菊水」時代の徳利 |
銘柄名:菊水
屋号:菊屋
創業年:1655年(明暦元年)か1656年(明暦2年)
創業者:菊谷善右衛門
合併時の基本石数:364石
久保田町中通町(現、秋田市保戸野通町)に酒造業を起こした。創業年が1655年(明暦元年)とも、1656年(明暦2年)とも伝えられている。実はそれ以前に酒造業を営なんでいたのだが一旦中断し、それを再興したのが明暦年間とも伝えられ、真の創業年はよく分かっていない。屋号を「菊屋」と称して、13代菊谷善一郎(秋田酒類製造株式会社第2代社長)の時代まで約290年間、清酒「菊水」を醸造しており、各品評会でも高い評価を得ていた。また同時に白酒も製造しており、こちらは「菊屋の白酒」として親しまれた。
菊屋の所在地は「菊谷小路」と愛称され、版画家・勝平得之の代表作「雪の街(昭和7年・帝展入選)」の中に、雪に映える造り酒屋の風景として描かれている。 |
|
|
1837年 |
橋本又右衛門が久保田町(現秋田市)手形新町に創業
銘柄:國粋
|
|
「秋みのり」の扁額 |
銘柄名:國粋、秋みのり
創業年:1837年(天保8年)
創業者:橋本又右衛門
合併時の基本石数:332石
久保田町手形新町(現、秋田市手形新栄町)に酒造業を起こし、明治に入り秋田市手形田中に移転した。1837年の創業時から「國粋」を銘柄名として発展を続けた。
後に、醸造用水として、白銀町(現、秋田市保戸野中町)の小川茂美宅の井戸水を用い、その酒質向上につとめた。また、「秋みのり」という銘柄名を新たに用いて、各品評会に出品、入選を重ねた。その酒質は、秋田市を中心に高い評価を得て、多くの人々に愛される酒となり発展した。
菊谷家の店の様子が描かれた「雪の街」同様、橋本家も版画家・勝平得之の作品「五月の街(昭和10年)」の中に描かれている。 |
|
|
1860年 |
高堂兵右衛門が久保田町(現秋田市)川反一丁目に創業
銘柄:程よし
萬延元年「程よし」創業 |
|
「程よし」の看板 |
銘柄名:程よし
創業年:1860年(萬延元年)
創業者:高堂兵右衛門
合併時の基本石数:306石
久保田町川反一丁目(現、秋田市大町一丁目)に酒造業を起こした。清酒「程よし」の他に白酒、味醂、生醤油を製造、いずれも好評を博し、地元の秋田はもちろん、北海道、関東へも販路を広げた。
代々新技術の研究、研鑽に熱心で、1875年(明治8年)に灘から杜氏・鷲尾久八を招き、その教えを受ける。また、1885年(明治18年)には、京都から麹蓋を買い入れ、醸造技術の改良と酒質の向上に努めるなどした。それら努力は数々の博覧会、品評会で抜群の評価を得ることになった。
|
「程よし」時代の徳利 |
初代兵右衛門から数えて6代目の高堂裕氏は、同地で1997年に地ビール「あくら」を興し、高品質のビール醸造を行っている。その品質はもちろん、市街地にあるビール工場として、全国的にも注目されている。 |
|
|
1871年 |
初代・野口周治郎が秋田市上通町に創業
銘柄:親玉
明治四年「親玉」秋田市に創業 |
|
「親玉」の包装紙 |
銘柄名:親玉
創業年:1871年(明治4年)
創業者:初代・野口周治郎
合併時の基本石数:948石
秋田市上通町(現、秋田市大町1丁目)に酒造業を起こした。南秋田郡土崎港町(現、秋田市土崎港)で茶・紙・砂糖などを営んでいた荒物商であった野口家から分家して、その酒造業を継承したとされる。秋田市を中心として周辺町村に清酒、味醂酒を販売した。
1918年(大正7年)に秋田県清酒品評会で優等賞を受賞。1920年(大正9年)には、奥羽連合清酒醤油品評会で優等賞を受賞している。
また、二代・周治郎は、秋田の酒造・経済に多大な影響を与え、秋田酒造組合長、秋田県酒造組合連合会会長、秋田県酒造協会長、秋田市議会副議長、秋田市商工会議所副会頭などを歴任した。戦時下にあって、企業合同による集中生産会社の設立を提唱し、弊社の設立発起人代表・初代社長に就任したのが、この二代・周治郎である。 |
|
|
1895年 |
廣島新之助が河辺郡牛島町(現秋田市牛島)に創業
銘柄:松舞鶴
明治二十八年「松舞鶴」「若殿」創業 |
|
「松舞鶴」のラベル |
銘柄名:松舞鶴、若殿
創業年:1895年(明治28年)
創業者:廣島新之助
合併時の基本石数:404石
河辺郡牛島町(現、秋田市牛島)に創業した。1869年(明治2年)以降毎年行われている歌御会始(うたごかいはじめ)のお題となった「松上の鶴」にちなみ「松舞鶴」という酒銘を使用して発展を重ね、後に「若殿」という銘柄もあわせて使用した。
創業者である新之助自ら熱心に酒造り携わり、酒質の向上努めるとともに、堅実主義という経営方針を貫き、好況時にも安易な増産をしなかった。このため品質への評価は極めて高く、各品評会で数度の受賞を重ね、秋田市はもとより北海道まで販路を広げた。
新之助の子・新太郎も堅実に家業を進展させるとともに、牛島地域の発展にも尽くした。また、弊社設立時には、その優れた醸造技術を評価され、製造の第一線で品質を支えたと言われている。 |
|
|
1900年 |
廣嶋豊治が秋田市酒田町(現旭南二丁目)に創業
銘柄:末廣
明治三十三年「末廣」創業 |
|
「末廣」の看板 |
銘柄名:末廣
創業年:1900年(明治33年)
創業者:廣嶋豊治
合併時の基本石数:191石
秋田市酒田町(現、秋田市旭南2丁目)に創業。醸造技術と増石に努め、後に秋田市楢山牛島橋通(現、秋田市楢山共和町)に移転した。創業者の豊治は、自ら醸造蔵を設計し、多くの雇人と一緒に作業に当たり、酒造りのすべてを取り仕切った。
その熱心な酒造りは、品評会や博覧会で高い評価を得るに至ったが、豊治は更なる酒質向上を目指し、醸造技術の講習会への参加や、専門技師の指導を通して、新技術の吸収に余念がなかったと言われている。
秋田市、河辺郡を中心に固い市場を築き上げ、昭和に入り企業合同を迎えるまで、堅調に発展を続けていった。 |
|
|
1902年 |
平川謙治が南秋田郡戸賀村(現男鹿市戸賀)に創業
銘柄:里能井
明治三十五年「里能井」創業 |
銘柄名:里能井
創業年:1902年(明治35年)
創業者:平川謙治
合併時の基本石数:100石
南秋田郡戸賀村(現、男鹿市戸賀)に酒造業を創業。平川家は文政年間、謙治の祖父・藤吉が山本郡浅内(現、能代市浅内)の本家より分家、渡部斧松と共に払戸村長根字渡部(現、男鹿市払戸字渡部)の開拓に加わったと伝えられる。
謙治の代になり、男鹿半島北部および北海道手売、焼尻の鰊漁場を市場に酒造りを始め、「里能井」の銘を用いた。酒銘は戸賀の村里に清々たる湧き水の地があり、これにちなんだとされる。
1925年(大正14年)謙治の死去に伴い、嗣子・恭治が家業を継承した。恭治は当時、大館市に開催された講習会に積極的に参加するなど、醸造技術の吸収に努め、酒質の向上を図ることで、昭和に入り、声価はますます高まった。 |
|
|
1905年 |
岡部正之助が河辺郡戸島村(現秋田市河辺)に創業
銘柄:戸島川
明治三十八年「戸島川」創業 |
|
「戸島川」のラベル |
銘柄名:戸島川
創業年:1905年(明治38年)
創業者:岡部正之助
合併時の基本石数:150石
川辺郡戸島村(現、秋田市河辺)に酒造業を創業。以前は醤油製造業を家業としていたが、日露戦争後の好況を期待して酒造を始め、酒銘「戸島川」を用いた。
正之助の長兄・正蔵は1845年(弘化2年)に生まれ、1918年(大正7年)に没するまで、終生故郷にあって教育や地元産業の振興に力を尽くした。当時の村は宿場として栄え、岡部家は庄屋だった。戊辰の役では、官軍の兵士延べ9千人を自宅に泊め、椿台(秋田市雄和)の戦場に昼夜を分かたず、兵糧を仕出しした。この軍功を認められ、名字帯刀を許されている。
大正14年正蔵は、明治22年の町村制施行と同時に豊島村長、同24年郡会議員に当選、また郡長となる。群会議長、農会長にも就任した。村内子弟の教育には特に熱心で、学校建設や教育資材の充実のため、幾度となく寄付した。また、学校基本財産として明治33年から3年間、杉苗3万本を村内各部落に植えている。道路、橋など土木関係での功労も大きい。明治34年に地方自治功労者として、藍綬褒章を受章している。
「戸島川」は秋田市および川辺郡を市場に、着実な発展を遂げ、正之助の子・正吉に継承された。正吉の嗣子・正徳は秋田酒類製造、秋田酒販株式会社の第三社長に就任すると共に、永年にわたり県議会議員、同副議長として県行政並びに県酒造業界の発展に貢献した。 |
|
|
1915年 |
太田慶助が南秋田郡船越町(現男鹿市船越)に創業
銘柄:八龍
大正四年「八龍」創業 |
|
「八龍」「寒風山」の甕 |
|
「八龍」の吟醸酒用甕 |
銘柄名:八龍
創業年:1915年(大正4年)
創業者:太田慶助
合併時の基本石数:366石
創業者の太田慶助は宅地・田畑等を積極的に増やし、そこからあがる田徳米の有効活用を主眼として、酒造りをはじめた。創業期には、五城目町の渡邉彦兵衛商店(福禄寿)から指導を受け、品質の確立につとめた。また、昭和初期には、秋田市新屋から桶買いもし、男鹿半島周辺町村に確固たる市場を築くにいたった。
その後太田商店は、慶助の長男・永治がこの酒造業を酒造部として、次男・常吉が醸造部(醤油、味噌製造)、三男・岩蔵が呉服部を継承し、他に運送部、薬種部、貸付部、林業部、製氷部など多岐にわたって営業をした。
また、永治の子・保は、酒造業を中心に、他の営業を統括し、昭和19年の企業合同を迎えることとなる。 |
|
|
1915年 |
近藤兵蔵が南秋田郡北浦町(現男鹿市北浦)に創業
銘柄:琴廼湖
「琴廼湖」創業、追分に文人集う |
|
「琴廼湖」の御用袋 |
銘柄名:琴廼湖
創業年:1915年(大正4年)
創業者:近藤兵蔵
合併時の基本石数:332石
1915年(大正4年)、近藤兵蔵が南秋田郡北浦町(現 男鹿市)に合名会社近藤酒造店をおこし、酒造業をはじめた。同店は、1922年(大正11年)、1927年(昭和2年)の2度にわたり、移転をする。1度目は、南秋田郡面潟村字真坂(現 八郎潟町真坂)に、2度目は、南秋田郡天王村追分(現、潟上市天王追分)へと移転した。
酒銘柄は、八郎潟にちなみ「琴廼湖」を用いたが、「追分け」「松緑」などの銘も用い、潟上市周辺、北海道礼文島鰊漁場を市場とした。
同家には、1935年(昭和10年)、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが訪れたのをはじめ、武者小路実篤、中川一政画伯など、多くの文化人が訪れた。 |
|
|
1918年 |
高橋周吉が南秋田郡船川港町(現男鹿市)に創業
銘柄:金的
「金的」創業、近代工場のはしり |
|
創業者:高橋周吉 |
銘柄名:金的
創業年:1918年(大正7年)
創業者:高橋周吉
合併時の基本石数:455石
1918年(大正7年)、高橋周吉が南秋田郡船川港町(現 男鹿市)に合名会社船川醸造場を設立し、酒造業を始めた。この醸造場は、工場の1階で造った蒸米と麹を2階にあげ、1階の仕込み蔵に原料を落とし、さらに出来たお酒を地下に送り壜詰、出荷をするという近代工場的な仕組みを随所にとりいれていた。また、ボイラーの一番近いところには従業員の休憩所を設け、仕込みが最盛期になる真冬でも、ストーブなしで過ごせるほど暖かいという、配慮の行き届いたものであった。
創業当初は、「男鹿正宗」という銘柄を使用していたが、1927年(昭和2年)に「金的」に改称。このころから全国清酒品評会に出品し、1940年(昭和15年)から二年連続で優等賞を受賞している。
1942年(昭和17年)、戸外の乾し場に洗って並べていた30石入りの大桶が、この年の大雪で破損してしまった。このため、700石ほどの醸造能力が455石まで落ち込んだまま、企業合同を迎えることとなった。 |
|
|
1921年 |
伊藤養之助が南秋田郡飯田川町に創業、
その後、鐙源次郎、諸橋竹次が社長になり営業
銘柄:飯田川
大正十年「飯田川」創業 |
|
「飯田川」のラベル |
銘柄名:飯田川
創業年:1921年(大正10年)
創業者:伊藤養之助
合併時の基本石数:535石
南秋田郡飯田川町飯塚に創業した。創業者となった南秋田郡井川村の伊藤養之助が同志を募り、飯田川酒造株式会社を設立。同氏が初代社長に就任するとともに、酒銘を「飯田川」とし、飯田川町とその周辺を主な販売地域とし事業の拡大を目指した。その後、二代社長に鎧源次郎、三代社長に諸橋竹次が就任している。1940年(昭和15年)に創立20周年の記念式典を挙行したが、企業合同とともに23年間の営業を終えた。
第三代社長の竹次の次男、正雄は1971年(昭和46年)に弊社と秋田酒販株式会社の第四代社長へ就任するとともに、秋田県酒造組合副会長として、秋田県の酒造業の発展に貢献した。 |
|
|
1944年 |
8月1日秋田酒類製造株式会社設立 (社長 先代野口周治郎)
【24酒造業者で始めるが、12酒造業者が残り現在に至る】 |